●錆びた鋸を取りあげた。
ナンさんは職人気質のデザイナーだった。この言い方は、おれにとっては「否定できない人間性」を意味している。気のいい人、正直な人間、計算などしない人間。こんな彼が亡くなった。喘息の持病で亡くなったという。
彼には高齢の母がいた。これだけが近親者であった。
武藤は広告代理店に勤めるコピーライターである。ナンさんが事務所で喘息の発作を起こしとき、事務所の女性が真っ先に電話をしてきたのが武藤であり、即座に事務所にかけつけ、救急車を手配したのも彼である。
天満の喫茶店。「A列車で行こう」の軽快なリズムのなかで、武藤は怒っていた。入院してたのに、病院で救命できなかったのは、どういうことなんや!
もっともな怒りだと思えた。
喘息とは「そのとき」に適切な処置さえすれば、翌日からでも日常に復帰できるような病気らしい。なのに、入院中に「そのとき」を病院は見のがし、放置し、死に至らしめたのだ。なにしてたんや! 病院に責任はないのか!
後日。天満のいつもの喫茶店。
今日もまた「A列車で行こう」を聴きながら、おれと武藤は打ち合わせ後の雑談をしていた。話しは、ナンさんのことに移っていった。
「ナンさんな」彼は言った。「あいつ、愚痴こぼしとったんや。支払えへんヤツがおるんやて~」
ピンときた。
「梅か」
「そや」
広告代理店は「うわさの王国」である。人事の評価は社内の「うわさ」で決まる。
うわさの生理は権力に違い者が有利なものだ。そして、広告代理店で権力に近いのは営業である。制作部の梅川は、ただたんに、小骨のような営業担当者の心証をよくするためだけに、人のいいナンさんへの支払伝票をきらなかったのだ。
おれはプランを練っていた。このままでは、すまされないことだ! 金槌がいいか、鋸がいいのか。おれは錆びた鋸を取りあげた。
赤い錆を見ながら、病院の担当者をどうすれば突きとめれられるのかを考えた。あの夜の宿直医と看護婦全員となると、大量殺傷だから鋸では無理かもしれない。こっちはナイフにするか。
そして、梅。これはこの鋸だと思った。赤い錆がヤツの首の骨をかき切る音が聞こえるような気がした。

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