●ナイフで切った栄転。
「腹たつんや~」
訪ねてきた鈴木さんが開口いちばんに発した言葉だった。D広告代理店の制作部の人間である。いつもの気楽な言い方とは少し違うニュアンスを感じた。
「どうしたんですか。また、アセって…」マックの画面が消えるのを見とどけてから、おれは座りなおした。
アメリカ村のはずれにある、おれのデザイン事務所。社員はおれ一人。最近の不況で引っ越したばかりだ。以前の半分ほどのスペースになってしまった。
「聞いてや、サーちゃん」 鈴木さんは鬚をモシャモシャと触りながら言った。代理店の人間は、だれにでも、ちゃんをつける。
「谷本、知ってるやろ」
うなずいた。
「今度の異動でな、あいつ、東京へいくんや。腹たつやないか。わかるやろ」 あいかわらず鬚をモシャモシャと触りながら言う。顔では笑っているが目は笑っていなかった。
鈴木さんは、広告代理店の人間とは思えないほど仕事熱心な人間だった。だからだろう、デザインの現場にも関心があり、よくおれの事務所にもやってきた。徹夜作業になるときには、弁当とビールを差しいれてもらったこともたびたびあった。
これに反し、谷本は昼間から酒臭い匂いをさせていた人間だった。彼が仕事をしている姿を、おれは一度も見たことがない。だが、これだけのことなら、谷本は仕事嫌いの社員ということで、遅かれ早かれ、それなりの処遇をうけるだけのことだ。おれはそう思っていた。
が、じつは違った。うわさではあったが、谷本は毎夜毎夜、新地の高級バーや高級クラブを飲みまわっているのだという。ま、これもいいだろう、そんな人間はたくさんいるんだから。だが、このうわさには奇妙なオマケまでついていた。その後、谷本の上司が彼の行ったバーやクラブをまわって歩くのだという。それが、なんと、彼の飲代を支払うためにというのだ。仕事をせず、夜は遊びまくり、なおかつ、上司が惨めな姿をさらして、彼の飲み代を支払って歩く。
常識ばなれした話しなので、これを聞いたときには信用できなかった。だが、その後、おれの見聞きしたことを総合すると、これは事実だと思うようになってきた。さらに、つぎの異動で彼は東京へ転勤するのだという。このことは、D代理店においては栄転の意味である。
聞くところによると、谷本は某有名企業の社長の御曹司ということであった。また、D広告代理店は企業経営者の子供を入社させ優遇する。これが会社の方針であるという。
息子がD広告代理店に勤めているなら、その父親、すなわち、どこかの企業経営者はD社に仕事を発注するだろう。巨大な企業が、広告宣伝に投ずる金額は膨大なものだ。これに比べれば、経営者の馬鹿息子を社員の名目で好き放題にさせることなど、広告代理店にとってはたいしたことではないのかもしれない。人質ともキックバックともいえるようなやり方ではあるが、しかし、これがリアルなビジネスの姿なのかもしれない。
だが、こんなやり方に不満を覚えるのは、ごく普通にD広告代理店に入社し、真面目に仕事をしている人間だ。企業として最善の選択であっても、同僚としては許しがたい。そのひとりが、いま、目の前にいる鈴木さんであった。
「わかりますわ。で、どの程度で…」おれは言った。
「全十段くらいで、どうかなあ」
「全国紙ですか」
「そのつもりや」
全十段とは新聞の三分の二を占めるスペースである。制作料金は、ま、五十万ほどになる。当然、実費は別だが。
この会話で、おれは谷本に恥じをかかすのか、気絶させるのか、身障者にするのか、あるいは、殺すのか…、おれの裏の仕事の程度を訊いたのであった。全十段なら恥をかかす程度だろう。
ズボンのポケットに突っこんだ右手のなかでナイフをくるくる回しながら、おれは三本目の煙草を踏みつけた。目の前はネオンの海のなかのタクシーの波。その先に目的のビルがある。男がタクシーに乗りこみ、女たちが嬌声とともにそれを見送る。午前二時から三時の、いつもの新地の風景が展開されていた。
四本目の煙草に火をつけたとき、ビルの入り口に見覚えのある痩せた女が現れた。女はタクシーをひとつひとつ丁寧に見ながら、店が呼んだタクシーかどうかを確認している。このあとエレベーターから白い背広の、白い顔の男が現れるはずだ。それが谷本である。ここ数日の下見で、おれは彼とその飲み屋の行動パターンを把握していた。
渋滞したタクシーの波をわたり、ビルのエレベーターの前におれは立っていた。あの女はまだタクシーを確認している。右手はズボンのポケットのなかでナイフを回転させていた。エレベーターが開いた。回転していたナイフは掌のなかで胸のあたりにまで引きあげられている。ママさんらしい女性に続いて谷本が現れた。
新地の夜の闇が女たちの悲鳴を吸いこんだ。
D代理店近くの喫茶店。おれはコーヒーを口にはこびながら言った。
「顔に傷だけね。逃げるのに苦労したんですよ、なにせ身動きとれないくらいのタクシーのだったんですから。いっそ殺したほうがラクだったかもしれない。でも、ま、こんなことなんでしょ」回転式の固定された椅子の窮屈な動きのなかで、おれはできるかぎりほがらかな調子で言った。
目の前には、鈴木さんのはればれとした笑顔があった。
「うん、あいつ、今日、休んでたわ。すっきりしたわ。いろんなエゲツないうわさも出てきたし、当分、あいつには仕事いけへんやろう。東京の件もご破算やろうな」
こう言ったあと、鈴木さんは少しだけ深刻な表情になった。
「もうひとつ、ここだけの話やけどな、営業の元木…。さーちゃん、知ってるやろ?」
おれが答える前に、彼が言った。
「新聞全ページでどないやろ。あいつ、気にくわんねん…三十段でもなんとかなるわ。腹たつんや、あいつ…」

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